江戸川乱歩の短編小説『芋虫』は、一度読んだら忘れられない強烈な印象を読者に与える作品として知られています。
戦争によって変わり果てた夫と、その妻の倒錯した関係を描いたこの物語は、発表当時から物議を醸し、検閲による伏字や発禁処分を受けるなど、波乱の歴史を辿りました。
この記事では、多くの読者を惹きつけてやまない「江戸川乱歩 芋虫」を徹底的に解説。
物語の深層に迫る考察、そして「ユルス」「コロス」といったキーワードの謎、さらには「伏字なし」で「全文」を読む方法や、「実話」なのかどうか、「青空文庫」での公開状況まで、読者が求める情報を網羅的にお届けします。
江戸川乱歩『芋虫』のあらすじ:物語の始まりと異様な夫婦生活

江戸川乱歩さんの『芋虫』の物語について、詳しく見ていきましょう。
この物語は、須永時子さんと、須永時子さんの夫である須永中尉さん、この二人の登場人物を取り巻く、ちょっと普通ではない状況から静かに始まります。
須永中尉さんは、作中の描写を読むと日露戦争ではないかと思われる激しい戦いで、体にとても大きな傷を負ってしまいました。
その結果、須永中尉さんは両手両足を失い、耳も聞こえず言葉も話せないという、言葉にするのも難しい状態の「傷痍軍人」となったのです。
外の世界とコミュニケーションをとる方法は、かろうじて残った視力と、基本的な体の動きだけです。
口に鉛筆をくわえて文字を書いたり、目や表情を変えたりすることでしか、自分の気持ちを伝えることができません。
須永中尉さんの痛ましい姿は、物語の中で何度も「大きな芋虫」のようだと、強い言葉で表現されています。
この特別な事情を抱えた夫婦は、須永中尉さんが以前仕えていた上司、鷲尾少将さんの温かい心遣いによって、広いお屋敷の離れを家賃なしで借りています。
まるで世間の騒がしさから隠れるように、ひっそりとした毎日を送っているのでした。
「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」の中心部分に進む前に、この閉ざされた異常な環境が、読んでいる私たちを否応なく物語の不穏な世界へと深く引き込んでいくのを感じませんか。
物語が始まったばかりの頃、妻の須永時子さんは、体が不自由になった夫を一生懸命に介護する、貞淑な妻として周りの人、特に鷲尾少将さんから褒められていました。
しかし、その褒め言葉は時間が経つにつれて、須永時子さんにとって苦痛でしかなくなっていきます。
なぜなら、須永時子さんの心の中では、夫への同情や最初の深い悲しみが、もっと複雑で暗い、歪んだ感情へと静かに、しかし確実に変わり始めていたからなのです。
須永中尉さんの描写:失われた人間性と残されたもの

須永中尉さんの存在は、まず体が極端に損なわれていることで、私たちに強い印象を与えます。
「肉塊」「人間芋虫」といった言葉で表現される須永中尉さんの姿は、戦争が個人に与える破壊的な影響を、とても直接的で残酷な形で表していると言えるでしょう。
須永中尉さんは外の世界との接触をほとんど絶たれ、意思の疎通も難しい状態に置かれています。
残された視力は、須永中尉さんにとって世界とつながるたった一つの窓であり、須永中尉さんの心の中を映す鏡でもありました。
物語の中では、須永中尉さんが初めは新聞記事や自分の勲章に興味を示したことなど、人間としての意識や過去の記憶が少し残っていることがうかがえます。
しかし、だんだんと食べる欲求と性的な欲求という、もっと基本的な欲求に動かされる存在として描かれるようになります。
ですが、須永中尉さんの心の奥底には、失われた人間らしさへの渇望や、人としての道徳観と本能との間で揺れ動く気持ちがあったのかもしれません。
須永中尉さんの存在自体が、物語の悲劇性を深め、須永時子さんの歪んだ心を引き出すきっかけになっているのです。
鷲尾少将さんの役割:社会の建前と現実のギャップ

鷲尾少将さんは、物語の中で昔ながらの社会のルールや道徳観を象徴する人物として登場します。
鷲尾少将さんは須永中尉さんを戦争の英雄として称え、須永時子さんを貞淑な妻として褒め、住む場所を提供するなど具体的な手助けをします。
しかし、鷲尾少将さんは須永夫婦の間に存在する暗く歪んだ現実には、まったく気づいていないように描かれています。
鷲尾少将さんの存在は、戦争英雄という社会的な名誉がいかに中身のないもので、表面的な評価がいかに本当の姿とかけ離れているかをはっきりと示しています。
また、鷲尾少将さんの常識的な視点は、須永時子さんの異常な行動とその罪悪感を際立たせる対比の役割を果たしています。
物語における社会と個人の間の深い溝を象徴しているとも言えるでしょう。
江戸川乱歩『芋虫』のあらすじが描く時子の変貌と倒錯した愛

夫である須永中尉さんのどうすることもできない無力さは、須永時子さんの心の中に密かに隠れていたサディスティックな欲望を呼び覚ましてしまいます。
サディスティックな欲望とは、他の人を虐げることで快感を得る性質のことですね。
まるで開けてはいけないパンドラの箱を開けてしまったかのようです。
最初は同情や義務感から始まった介護でした。
しかし、閉ざされた環境と、夫が完全に須永時子さんに頼りきっている状態は、須永時子さんの心を歪めていきます。
須永時子さんはだんだんと、夫を自分の「情欲」を満たすためのただの道具、あるいは意のままになる生き物のように見なし始めます。
夫を体や心でいたぶる行為そのものから、歪んだ性的な快楽を得るようになっていくのです。
時子さんの心理変容:サディズムと歪んだ依存
須永時子さんの心の中の変化は、単にいじめるのが好きというだけでは説明できません。
そこには、孤立した生活への絶望感、満たされない性的な欲求、そして夫の完全な無力さに対する歪んだ魅力が、複雑に絡み合っています。
須永時子さんは夫を支配することで、自分の存在価値を確かめようとします。
同時に、夫への歪んだ形での依存関係を深めていくのです。
夫を虐待する一方で、夫がいなければ自分の歪んだ快楽も成り立たないという矛盾を抱えています。
須永時子さんの体型が「デブデブ肥え太る」と書かれているのは、単に体が太ったということだけではないでしょう。
満たされない欲望が心の中で大きくなり、精神的なバランスを失っていく様子を表しているのかもしれませんね。
この「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」における須永時子さんの心理描写の細かさは、読んでいる私たちに強い不快感を与えるかもしれません。
しかし同時に、人間の心の闇に対するある種の理解をもたらす可能性もあります。
須永中尉さんの変容:欲望の肥大化
一方、被害者である須永中尉さんも、この異常な関係の中で変わっていきます。
体の自由や感覚の多くを奪われた代償なのか、あるいは極限状態での生きるための本能なのか、須永中尉さんの食欲と性欲は異常なほど高まります。
須永中尉さんは常に須永時子さんの体と食事を強く求めるようになります。
その欲望は、須永時子さんのサディズムをさらに刺激する結果となってしまいます。
しかし、須永中尉さんの心の中には、かつての軍人としての道徳観や人間としての尊厳を求める気持ちが、わずかに残っているようです。
それが自分の動物的な欲求と葛藤している様子が、時折、須永中尉さんの「物言う両眼」に映し出されます。
この心の中の葛藤こそが、須永時子さんにとって抵抗しがたい魅力となり、須永時子さんの嗜虐心、つまりいじめたい気持ちをさらに掻き立てるのです。
この「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」における二人の関係性は、単なる加害者と被害者という単純な分け方では捉えきれません。
歪んだ共依存の様子を深く描き出していると言えるでしょう。
江戸川乱歩『芋虫』のあらすじにおけるクライマックス:『ユルス』と『コロス』への序章

物語の緊張感が最も高まるのは、ある不吉な夜のことです。
須永時子さんは、何とも言えない悪夢にうなされて、飛び起きます。
隣を見ると、肉塊のような夫が、ランプの灯りに照らされながら、うつろに天井をじっと見つめています。
その静かでありながら異様な姿は、須永時子さんの心を激しく揺さぶります。
眠れなくなった須永時子さんの頭の中に、過去の出来事が次々とよみがえってきます。
夫が負傷して故郷に送り返された時の衝撃と悲しみ。
衛戍病院での痛ましい再会。
両手両足を失った代償として与えられた金鵄勲章と、それに伴う一時的な世間の称賛。
そして時間が経つにつれて急速に忘れ去られ、社会から孤立していった現実。
これらの記憶のかけらが引き金となり、須永時子さんの中で抑えきれなくなっていた凶暴な衝動が一気に爆発するのです。
最後の窓の破壊:決定的な破局へ
須永時子さんは衝動的に夫の布団の上に飛びかかり、激しくその体を揺さぶります。
夫は驚き、そして強い叱責のまなざしで須永時子さんをにらみつけますが、須永時子さんは止まりません。
「怒ったの?なんだい、その目」と叫びながら、須永時子さんは夫の抵抗を無視し、いつものように自分の欲望を満たそうとします。
しかし、その夜の須永中尉さんは、いつものように妥協することなく、刺すような視線で須永時子さんを見据え続けます。
その「物言う両眼」に、須永時子さんは言いようのない恐怖と、自分の完全な支配を拒むものへの激しい憎しみを感じます。
「なんだい、こんな目」と狂ったように叫びながら、須永時子さんは両手で夫の目を強く押さえつけ、その視線を永遠に奪い去ってしまうのです。
夫に残された最後の感覚器官であり、外の世界との唯一のつながりであった視力を破壊するというこの行為は、「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」全体を通じて最も衝撃的で、決定的な破局をもたらす場面と言えるでしょう。
罪の意識と「ユルシテ」:結末への伏線
ハッと我に返った須永時子さんは、自分がおかした行為の恐ろしさと、その心の底にあった「夫を生きた屍にしてしまいたかった」という自分自身の恐ろしい願望に気づき、激しく震えます。
慌てて医者を呼び、必死に看病をします。
しかし、取り返しのつかないことをしてしまったという罪悪感にさいなまれます。
医者が帰った後、須永時子さんは熱にうかされる夫のそばで、涙ながらに「すみません」と謝罪を繰り返し、夫の胸に指で何度も何度も「ユルシテ」と書き続けるのでした。
この痛切な願いが、後の謎めいた結末、「ユルス」そして自ら死を選ぶ「コロス」へとつながる、運命の分かれ道となるのです。
江戸川乱歩『芋虫』のあらすじと結末『ユルス』『コロス』の謎

取り返しのつかない罪をおかしたという意識に苦しむ須永時子さんは、普通の人間社会の代表とも言える鷲尾少将さんのもとへ駆け込み、すべてを打ち明けます。
鷲尾少将さんは驚きながらも、まずは須永中尉さんを見舞うことを提案します。
しかし、二人が離れに戻ったとき、そこに須永中尉さんの姿はありませんでした。
部屋は空っぽで、ただ枕元の柱に、震えるような字で書かれた鉛筆の走り書きが残されているだけでした。
読むことさえ難しいその文字は、かろうじて「ユルス」と読めたのです。
「ユルス」の意味するもの:残された謎
この予期せぬ、そしてあまりにも寛大な許しの言葉は、須永時子さんの罪悪感を和らげるどころではありません。
むしろ針のように突き刺さり、さらに須永時子さんを苦しめます。
なぜ須永中尉さんは、最後の感覚器官を奪った自分を許すのでしょうか?
その本当の意味を理解できず、須永時子さんは混乱します。
「ユルス」という言葉は、文字通りの許しなのでしょうか。
それとも、もはや全てをあきらめた人の心境の表れなのでしょうか。
あるいは、須永時子さんの行為への皮肉な黙認なのでしょうか。
もしかしたら、自分の死をもって須永時子さんをこの状況から解放しようとする、歪んだ愛情表現の一種なのかもしれません。
この「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」の結末における最大の謎であり、様々な「江戸川乱歩 芋虫 考察」がなされる中心部分ですね。
「コロス」:自死という最後の選択と解釈
「ユルス」の謎に心が揺れる間もなく、二人は庭で不審な物音を聞きつけます。
庭の古井戸のそばで、二人は地面を這うように進む須永中尉さんの姿を発見します。
それはまさしく、苦しみながら進む一匹の巨大な芋虫のようでした。
そして次の瞬間、須永時子さんの目の前で、須永中尉さんは自ら古井戸の暗闇へと身を投じます。
地の底から響く鈍い水音だけが、須永中尉さんの最期を告げました。
この自死、つまり自らを「コロス」ことを選んだ行動は、須永中尉さんに残された最後の、そして究極の意思表示だったのかもしれません。
それは、須永時子さんによる完全な支配に対する最後の抵抗であり、奪われた尊厳を取り戻すための行為だったのでしょうか。
それとも、最後の感覚である視力さえも失い、完全な暗闇と静寂の中に閉じ込められたことによる、絶対的な絶望の表明だったのでしょうか。
読者によって解釈は分かれます。
この悲劇的な結末は、「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」を読み終えた後も、重く、そして深く心に刻まれるのです。
ある感想では、この結末を須永時子さんに対する究極の復讐と捉えるものもあります。
永遠に「ユルス」という言葉と夫の死の記憶に苦しめられ続けることこそが、須永中尉さんが須永時子さんに与えた罰である、と考える人もいるようです。
江戸川乱歩『芋虫』のあらすじは実話なのか?その背景を探る
これほどまでに生々しく、衝撃的な「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」に触れると、多くの読者の方はこの物語が何らかの「実話」に基づいているのではないか、と考えるかもしれませんね。
特に、戦争によって重い障害を負った軍人とその家族という設定は、当時の日本社会を知る人にとっては、決して作り話とは思えないリアリティを持っているのではないでしょうか。
傷痍軍人という社会的存在:当時のリアル
実際に、物語の背景となっている日露戦争(あるいはその後の時代)では、多くの兵士が戦いで深刻な傷を負い、「傷痍軍人」として社会に戻ってきました。
傷痍軍人の皆さんは、国のために戦った英雄として一時的に称賛されることもありました。
しかし一方で、その痛ましい姿や社会復帰の難しさから、だんだんと同情や、時には嫌悪の対象となり、社会から孤立していくケースも少なくなかったのです。
政府による年金や療養施設の整備はあったものの、十分とは言えませんでした。
多くの傷痍軍人さんとその家族が、経済的、精神的な困難に直面していたのです。
須永中尉さんの境遇は、こうした当時の社会が抱えていた暗い部分を色濃く反映していると言えます。
江戸川乱歩さんの意図と創作の真実:フィクションか現実か
しかしながら、作者である江戸川乱歩さん自身は、この作品が特定の「実話」に基づいているとははっきり言っていません。
江戸川乱歩さんはむしろ、戦争反対のメッセージや社会告発よりも、「極端な苦痛と快楽と惨劇」といった、人間の根本的な感情や心理の極限状態を描くこと自体に興味があったと述べています。
戦争や傷痍軍人という設定は、あくまでそのための「都合の良い材料」であった、というのが江戸川乱歩さん自身の考え方です。
したがって、『芋虫』は特定の事件をモデルにした「実話」ではありません。
江戸川乱歩さんの持つ独自の美的感覚と、人間心理への深い洞察に基づいて作られたフィクションであると考えるのが自然でしょう。
ただし、そのフィクションが、当時の社会が抱える痛ましい現実と深く響き合っているからこそ、これほどまでに強烈なリアリティと衝撃を私たち読者に与えるのかもしれませんね。
江戸川乱歩『芋虫』のあらすじ全文を伏字なしで読むには?青空文庫は?
江戸川乱歩さんの『芋虫』を深く理解するためには、この作品が出版されるまでの経緯と、検閲の問題を知ることがとても大切です。
この作品は、その衝撃的な内容のために、発表された時から困難な道を歩んできました。
検閲と伏字の歴史:作品がたどった苦難
『芋虫』はもともと、文芸雑誌『改造』から依頼されて書かれた作品でした。
しかし、内容が反軍国的で、金鵄勲章を馬鹿にしていると見なされたため、掲載を断られてしまいました。
その後、探偵小説雑誌『新青年』の1929年1月号に掲載されることになります。
その際も、編集長の判断でタイトルが『悪夢』に変更されました(江戸川乱歩さん自身は不本意だったようです)。
本文には多くの箇所に伏字(文字を隠す処理)が施されました。
ある版は「伏せ字だらけ」だったという記録も残っています。
さらに深刻だったのは、発表から10年後の1939年、日中戦争が長引く世の中の状況で、作品集『鏡地獄』に収録された版が内務省によって「全篇削除」を命じられ、事実上の発禁処分(本の回収)を受けたことです。
当局はその理由として、「廃兵(戦争で障害を負った兵士)の悲惨な肉体が醜悪に描かれている。その点が時局から見て不穏と思われる」こと、そして「不健全な性欲がグロテスクに露骨に描かれすぎている」ことを挙げています。
この出来事は、戦時中の言論統制がいかに厳しかったか、そして江戸川乱歩さんの作品がいかに危険視されていたかを物語っています。
「伏字なし」で「全文」を読む方法:おすすめの版は?
このような経緯があるため、読者の方がどの版を読むかによって、読書体験が大きく異なる可能性があります。
特に注意したいのは、角川ホラー文庫の『江戸川乱歩ベストセレクション② 芋虫』(2008年)です。
この版は、元にした光文社文庫版全集の本文(伏字のある版)をそのまま収録してしまったため、伏字部分が補われていません。
そのため、読者にとっては内容が分かりにくいという、少し特殊な版になっています(ただし、光文社文庫版の全集自体には、解説部分で伏字の内容が補足されています)。
現在、「江戸川乱歩 芋虫 伏字なし」で「全文」を読みたい場合は、戦後に伏字が補われた版を選ぶ必要があります。
多くの出版社から出ている文庫版、例えば新潮文庫の『江戸川乱歩傑作選』や、創元推理文庫の『日本探偵小説全集2 江戸川乱歩集』などに収録されている『芋虫』は、基本的に伏字のない完全な形で読むことができます。
これらの版を選ぶことで、江戸川乱歩さんが本来描こうとしたであろう、より詳細で生々しい描写や心理表現に触れることができるでしょう。
「青空文庫」での公開状況:無料で読める?
インターネット上で著作権の切れた作品を無料で公開している「青空文庫」ですが、2024年現在、「芋虫 江戸川乱歩 青空文庫」での作品公開は「作業中」となっています。
これは、テキストの入力や校正作業がまだ完了していないことを意味します。
そのため、現時点では青空文庫で『芋虫』の全文を無料で読むことはできません。
完全な形で作品を読みたい場合は、先ほどお話ししたように、信頼できる出版社の本を手に入れるのが確実ですね。
江戸川乱歩『芋虫』のあらすじに関する深い考察
「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」を丁寧に追うだけでも、その物語世界の恐ろしさ、登場人物たちの歪んだ心理に圧倒されることでしょう。
しかし、この作品はさらに多層的で深い「江戸川乱歩 芋虫 考察」を私たちに促す力を持っています。
単なる猟奇的な物語として終わるのではなく、文学作品として様々な角度から分析され、議論され続けてきました。
戦争の影と反戦的解釈:乱歩さんの真意は?
須永中尉さんの悲惨な姿は、戦争がもたらす体や心の破壊を強烈に象徴しています。
一時的に称賛された後に忘れ去られる傷痍軍人さんの姿は、国が掲げるきれいごとの裏にある冷たい現実を突きつけます。
そのため、この作品を戦争反対のメッセージを持つ作品として解釈する声は根強くあります。
発表された当時、左翼的な読者から賞賛されたという話も残っています。
しかし、江戸川乱歩さん自身はこの解釈には距離を置き、あくまで「苦痛と快楽と惨劇」という美的なテーマを描くための材料として戦争を用いたと述べています。
この作者の意図と、作品が呼び起こす社会的なメッセージとの間の緊張感が、この作品の複雑な魅力を形作っているのかもしれませんね。
エログロと倒錯の美学:乱歩文学の真骨頂
『芋虫』は、江戸川乱歩さんの文学を特徴づける「エロ・グロ(エロティック・グロテスク)」の極みを示す作品として、しばしば話題に上ります。
須永時子さんと須永中尉さんの関係は、快楽と苦痛、愛と憎しみ、支配といじめられることが分かちがたく結びついた、歪んだ関係性をあらわにしています。
特に、須永時子さんが夫の無力な体をいたぶることから性的な快楽を得る描写。
須永中尉さんの「物言う両眼」に対する須永時子さんの複雑な感情(魅力と憎しみ)。
これらは、人間の心理の最も暗い領域に光を当てています。
江戸川乱歩さんは、当時の日本にも紹介され始めていたフロイトなどの精神分析学の影響を受けながら、人間の無意識の中に潜む、タブー視された欲望を大胆かつ詳細に描き出そうとしたのでしょう。
障害、身体、感覚への問いかけ:人間とは何か
物語の中心には、損なわれ、変容し、物のように扱われる「身体」が存在します。
「芋虫」という比喩は、単に須永中尉さんの体の状態を示すだけではありません。
須永中尉さんの存在そのものの異様さ、人間としての尊厳が奪われていく過程を象徴しています。
江戸川乱歩さんは、極端な体の違いに対する人間の反応、特に嫌悪や恐怖、そして歪んだ魅力を鋭く観察しています。
さらに、物語は「感覚」というテーマにも深く切り込んでいます。
失われた聴覚や話す能力、そして最後に奪われる視力。
残された感覚(特に視覚と触覚)の重要性と、その喪失がもたらす究極の孤独と恐怖が強調されます。
これは、『人間椅子』など他の江戸川乱歩さんの作品にも共通する、異常な体の感覚や知覚の世界への執拗な探求心を示しています。
現代における『芋虫』の意義:今も読まれる理由
発表から長い年月が経った現代でも、『芋虫』は多くの読者に衝撃を与え続けています。
読者のレビューでは、「トラウマになる」「気分が悪くなる」「しかし目が離せない」といった感想が後を絶ちません。
体のグロテスクさ以上に、登場人物たちの心理的な異常さや、閉ざされた状況が生み出す狂気に、より生々しい恐怖を感じるという声も多く聞かれます。
障害学の観点からは、その描写における倫理的な問題点が指摘されることもあります。
しかし一方で、当時の社会における障害者への認識を知る上での貴重な資料としての価値も認められています。
また、介護問題や人間の尊厳といった、現代社会が抱える普遍的なテーマともつながり、新たな解釈を生み出し続けているのです。
丸尾末広さんによる漫画化や、若松孝二監督による映画『キャタピラー』(この作品にヒントを得た映画)といった翻案は、原作の持つ強烈なテーマ性が、時代やメディアを超えてクリエイターたちを刺激し続けている証拠と言えるでしょう。
まとめ:江戸川乱歩『芋虫』のあらすじとその魅力
ここまで、「江戸川乱歩 芋虫 あらすじ」を詳しく解説するとともに、物語の背景にある登場人物たちの複雑な心理、作品が持つ多層的なテーマ、そして「ユルス」「コロス」という謎めいた結末について深く掘り下げてきました。
さらに、「実話」なのかという疑問への考察や、検閲による「伏字」の問題と「全文」を「伏字なし」で読む方法、「青空文庫」での公開状況についても触れ、多角的な「江戸川乱歩 芋虫 考察」を展開しました。
『芋虫』は、読む人に強烈な不快感や恐怖を与えずにはおかない、とても問題含みの作品です。
しかし同時に、そのグロテスクで歪んだ描写の奥底には、戦争の悲劇、人間の心の闇、愛と憎しみの極限、そして存在の根本的な孤独といった、普遍的なテーマが鋭く描き出されています。
江戸川乱歩さんという作家の、常識や倫理の境界線を踏み越えてでも人間の深淵をのぞき込もうとする、すさまじい執念と芸術的な探求心が結晶化した作品と言えるでしょう。
結末の解釈に明確な答えはありません。
その曖昧さが、読者一人ひとりに重い問いを投げかけ、長く記憶に残り続けます。
この記事が、あなたが江戸川乱歩さんの『芋虫』という、日本の近代文学が生んだ特異な傑作の世界をより深く理解し、探求するための一助となれば幸いです。
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